AH Kyushu 検索

カスタム検索

8/16/2010

青春の門と驟雨

青春の門を片手に上京した・・・

東京の華やかさと闇・・・

すぐに、青春の門を捨てて、吉行淳之介の赤線文学にはまった・・・


---Wiki

青春の門』(せいしゅんのもん)は、五木寛之1969年から『週刊現代』に断続的に連載している大河小説で、テレビドラマ化や映画化、漫画化もされた。1976年『筑豊編』で五木は吉川英治文学賞を受賞。早稲田大学の先輩である尾崎士郎の『人生劇場』に倣ったものである。



  • 伊吹信介(いぶき しんすけ) - 主人公。
  • 伊吹タエ(いぶき たえ) - 信介の義理の母親。
  • 伊吹重蔵(いぶき じゅうぞう) - 信介の父親。炭鉱での事故により、他界。
  • 牧織江(まき おりえ) - 信介の幼馴染。
  • 塙竜五郎(はなわ りゅうごろう) - ヤクザ「塙組」の親分。
  • 金朱烈(きん しゅれつ) - 朝鮮人。信介から「兄ちゃん」と呼ばれている。
  • 金九南(きん きゅうなん) - 朱烈の弟。信介の友達。
  • 留二(とめじ) - 信介の幼馴染。「でく」と呼ばれている。
  • 早竹先生(はやたけせんせい) - 野球部の顧問。
  • 梓旗江先生(あずさはたえせんせい) - 音楽の教師。
  • 長太(ちょうた) - 塙組の一人。竜五郎からの信頼が厚い。
  • 矢部虎次(やべ とらじ) - ケンカ師。筑後の虎として恐れられていた。
  • エリカ - 長太が惚れている美しい女性。




あらすじ

伊吹信介は炭鉱地帯に生れた。父の重蔵はヤマ騒動でダイナマイトを爆発させた犯人として検挙され、はげしい拷問に耐え抜いてヤマの英雄とみなされた人物で、その存在は北九州一帯に知れわたっていた。重蔵が、新興やくざ塙竜五郎とカフェーの女給タエをはりあって大喧嘩となり、全身傷を負いながらも彼女を手に入れたことは多くの人の語り草になっている。そのタエが信介の二度目の母となった。二年後。竜五郎が関係している鉱山で落盤事故が起き、坑夫たちが坑内に閉じ込められてしまった。重蔵はダイナマイトを腹にまきつけ、竜五郎に見送られ、坑夫たちを救出に坑内に入った。多くの坑夫たちが救出されたが、重蔵は戻って来なかった。信介五歳の時だった。以来、タエは採炭の仕事をしながら女手一つで信介を育てた。信介も父の血を受けつぎ、負けん気の強い少年に成長。ある日、朝鮮人の子供と喧嘩し、一対一の勝負をつけるため、朝鮮人部落へ向かった。そこで、落盤事故で父に救出された金山と出会った。その日から、金山は重蔵への恩義から信介母子の貧しい生活を助けるため、足しげく信介の家を訪れるようになった。しかし、その金山も戦場にかり出されていった。やがて終戦となった。満州から戻った竜五郎は、飯塚で一家を構え、信介母子の世話を申し出るが、タエは自分の手で信介を育てると言う。信介が中学に入った頃、金山がシベリアから帰って来た。金山は労働組合のリーダーとなり、朝鮮人労働者の差別撤廃を求め、あやまって炭鉱主を殺害、追われる身となる。その頃、タエは過労のため結核に蝕まれ、母子は竜五郎に引き取られることになった。幼なじみの織江が涙ながらに信介を見送る。飯塚の中学に進んだ信介は学校の音楽教師、梓旗江に慕情を寄せるが、かなわぬ思いを織江に求めた。情熱的な生き方を求める梓先生は田舎の生活に飽き足らず、信介に上京をすすめ、自ら飯塚の町を去っていく。信介はさびしさをまぎらわそうと、織江を訪ねた。だが織江は母親が死亡したため、貧しい家庭をささえきれず、小倉のキャバレーに勤めに出ていた。小倉に織江を訪ねた信介は、その夜、安旅館で男になった。数日後、竜五郎が朝鮮人労働者に撃たれた。一家の長太が単身殴り込みに行くが、逆につかまってしまい、竜五郎が引き取りに行く。そこへ金山が立ちふさがる。二人の間に割って入った信介は長太をかついで去って行った。空に向け発砲する金山。これが信介に対する金山の訣別のしるしであった。自分で生きていこうと、信介は上京を決意、療養所のタエに報告する。一人前の男になったと喜んだタエは翌日、多量の血を吐いて他界してしまう。タエの葬式を終え、信介は竜五郎に置手紙を残し、東京へ旅立った。信介はすべての人間が一生に一度だけくぐり抜ける青春の門の入口に近づこうとしていた。

---Wiki
吉行 淳之介(よしゆき じゅんのすけ、1924年大正13年)4月13日 - 1994年平成6年)7月26日)は、日本文学小説家。代表作に『驟雨』『砂の上の植物群』など。対談やエッセイの名手としても知られた。
岡山県岡山市に父・吉行エイスケ(モダニズムの詩人)、母・あぐり(美容師)の長男として生まれ、東京麹町に育った。同じ町内には内田百閒がいた。府立一中の受験に失敗し、麻布中学を経て旧制静岡高校(現静岡大学)文丙(文系仏語クラス)に進んだ[1]。1944年、徴兵検査を受け甲種合格、20歳で召集されるが、9月1日の入営直後に気管支喘息と診断され即日帰郷。ところが翌年ふたたび徴兵検査の通知が届き、再び甲種合格という特異な体験をしている(今度は召集はなかった)。1945年4月、東京大学に入学。5月の東京大空襲で焼け出され、8月に終戦を迎えた。
大学の授業にはあまり出席せず、新太陽社で編集のアルバイトをしていた。社長の勧めで学業を放棄し(学費をついに一度も払わず、学費未納のため除籍処分)、1947年新太陽社に入社。『モダン日本』『アンサーズ』などの雑誌の編集に携わった。このときアルバイト編集者に澁澤龍彦がいた。会社が倒産寸前のなかで多忙を極めて働きながら、いくつかの同人雑誌(『世代』『新思潮』など)に年一作のペースで作品を発表。同人雑誌を通して安岡章太郎近藤啓太郎阿川弘之三浦朱門島尾敏雄らと知り合った。
1952年『原色の街』が芥川賞候補になるが落選。その後『谷間』、『ある脱出』で候補に上るが、いずれも落選。『谷間』発表後、肺に結核による空洞が見つかり会社を休職、翌年に退社した。清瀬病院で肺切除の手術を受けて療養中、1954年『驟雨』で第31回芥川賞を受賞し、収入の手段が他にないので、受賞を機に作家生活に入った。当時、吉行と同世代の作家、遠藤周作安岡章太郎三浦朱門近藤啓太郎らは「第三の新人」と呼ばれた。
1981年、日本芸術院会員。
晩年は数々の病気を克服しながら執筆を続けた。私小説的な純文学系・芸術的傾向の作品として、長編『砂の上の植物群』『暗室』『夕暮まで』、中編『男と女の子』『焔の中』『出口・廃墟の眺め』、また『奇妙な味』の短編『鞄の中身』などがある。また、エンターテインメントの方面でも『すれすれ』『にせドンファン』『鼠小僧次郎吉』などがある。
このほか『軽薄のすすめ』など軽妙な随筆のファンも多い。長年にわたって週刊誌に対談コーナーを連載し「座談の名手」としても知られ、それらは『軽薄対談』『恐怖対談』などにまとめられている。またヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』の翻訳、井原西鶴『好色一代男』の現代語訳なども手がけている。阪神タイガースのファンで、『Number』誌上で山藤章二上岡龍太郎と鼎談を行ったこともある。
1994年、肝臓癌のため聖路加国際病院で死去。70歳。墓所は岡山県御津郡金川町草生(現在の岡山市御津金川)吉行家墓地。

女性関係 [編集]

波乱に満ちた女性遍歴も大きな特徴だった。若い頃に結婚した本妻・吉行文枝との間に女児が一人いたが、後に別居。女優・宮城まり子と長年にわたって同居し事実上の伴侶となったが、本妻は遂に離婚に応じなかった。その他にも愛人がおり、死去後に大塚英子と高山勝美が名乗り出た。大塚が『暗室のなかで 吉行淳之介と私が隠れた深い穴』[2]で、高山が『特別な他人』[3]で、宮城が『淳之介さんのこと』[4]で、そして本妻の文枝が『淳之介の背中』[5]で、それぞれの体験を公表している。

0 件のコメント: