State(Countys) 州(カウンティは出張所)
City 市
町村 => 市へ・・ シティへ、例)中国の富裕村、華西村? 高層ビルが建っている
Tokyo Metro 東京都
Kanto State 関東州
Hokohama City 関東州政府庁所在地
Saitama City
Osaka Metro 大阪都
Kansai State 関西州
Kyoto City 関西州政府庁所在地
Kobe City
Kyushu State 九州州
Fukuoka Metro 九州州政府庁所在地
IIzuka City
これで、どう?
橋下知事? 石原知事? 麻生知事?
AO
追伸) 前頭のお相手は?
Tohokkai State 東北海州、カムイの地?
Sapporo Metro 東北海州政府庁所在地
Sendai City
田村は中国の霊帝の血を引くモノ、応神天皇の御代、応神天皇とは、八幡神である・・
不確実性の時代、フォーワード・リーズニングに切り替える・・・
過去は結果、変えられない、今は刹那、生きている。未来は創造、新しく創る・・・中国・霊帝の末裔、右三つ巴+ダビデの星+左三つ巴
右三つ巴 武
ダビデの星 王の中の王?
左三つ巴 文
A business that makes nothing but money is a poor kind of business.
-Henry Ford
金しか作らないビジネスは不毛な類のビジネスだ
- ヘンリー・フォード
金しか作らないビジネスは「あだ花」を咲かして枯れるのみ
- 青柳洋介
阿智王
前頭は?
九州州は? 漢委奴国王+卑弥呼
東北海州は? カムイ伝説
---Wiki
アテルイ(生年不詳 - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者である。789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。
史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もあるがこれは近代になって作られた伝説いわゆるデマである。フルネームは大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)[1][2]。
本項ではアテルイと共に処刑された母礼(モレ)についても記載する。
史料にみるアテルイ [編集]
史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。
この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に侵攻した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。
その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたらしい。田村麻呂は、802年(延暦21年)に、胆沢の地に胆沢城を築いた。
『日本紀略』は、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことを記す。2人は田村麻呂に従って7月10日に平安京に入った。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるようと提言した。しかし、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決めた。アテルイとモレは、8月13日に河内国で処刑された。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しない[3]。「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したものであり、比定地とみなす説があった[4]。しかし発掘調査の結果、宇山にあったマウンドは古墳であったことが判明し、「植山」=宇山説はなくなった。
現代のアテルイ像 [編集]
評価 [編集]
坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。明治以降の歴史学の見地からは、アテルイは朝廷に反逆した賊徒であり、また文献登場することもほとんど無いため注目されることはなかった。 これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があるが根拠はなく、これはまったくのデマである。
石碑、顕彰碑 [編集]
上述の枚方市宇山にはアテルイ・モレの胴塚と伝えられる塚がかつてあり(現存しない)、その近くの片埜神社のかつての社地(現在は牧野公園内)には首塚と伝えられる塚がある。但し、胴塚と伝えられていた塚は発掘の結果、アテルイの時代よりも200年近く古いものであることが判明した。1995年(平成7年)頃から毎年、岩手県県人会などが主催してアテルイの慰霊祭を行っており、片埜神社がその祭祀を行っている。もう1つの比定地は枚方市藤阪で、王仁博士の墓とされている墓が、実はアテルイの墓であるとする説がある。
田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。
2005年(平成17年)には、アテルイの忌日に当たる9月17日に合わせ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山に阿弖流爲・母礼慰霊碑が建立された。同慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年(平成16年)秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に、奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。
創作 [編集]
1990年代からは、アテルイを題材とした様々な創作活動が起こった。2000年(平成12年)吉川英治文学賞を受賞した高橋克彦著「火怨」や、これを原作としたミュージカル「アテルイ」(わらび座)などである。後者は2004年(平成16年)『月刊ミュージカル』誌の作品部門で10位にランクイン。タキナ役の丸山有子は小田島雄志賞を受賞している。他に高橋克彦原作による漫画「阿弖流為II世」(「火怨」とは無関係)や2002年(平成14年)新橋演舞場で公演された市川染五郎主演「アテルイ」(松竹株式会社)が有名である。2002年(平成14年)には没後1200年を機に、長編アニメーション「アテルイ」が制作された。
モレ [編集]
モレ(母礼)(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))とは、上記のアテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指導者の一人と見られている(『日本後紀』、『日本紀略』では磐具公母礼)。アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されている。フルネームは磐具公母礼(いわぐのきみもれ)。
観世流の能「たむら」
田村は中国の霊帝の血を引くモノ、応神天皇の御代、応神天皇とは、八幡神である・・
謡曲『田村』の舞台は言わずと知れた京都の清水寺ですが、こちらは他にも『熊野』・『盛久』の舞台としても知られています。また、『融』の曲中、有名な名所教えも、六条河原の院から音羽山、つまり清水寺の方に向っての景色を謡いますので、『田村』の名所教えの箇所も、皆さんよく聞き覚えのあるものとして馴染み深いのではないでしょうか。
清水寺と言えば「清水の舞台」、「音羽の滝」、「ご本尊の十一面観音像」、「子安の塔」、そして最近では寺領内にある地主神社が、「縁結びの神様」としてもてはやされるなど名所に事欠きませんが、このお寺と蝦夷征伐で有名な坂上田村麻呂が深い関係にあることは、一般にはあまり知られていないようです。この田村麻呂、一体どのような人物なのでしょうか。
坂上田村麻呂の生きた時代とは、奈良末期から平安にかけて。時の天皇である桓武帝は、大規模な国土統一と遷都を睨んだ政治を行っていました。その頃の事は「日本後期」という書物に詳しいのですが、残念なことにこの書物は散逸してしまった部分が多く、田村麻呂に関しての記述は、「薨伝」と呼ばれる追悼文が残っているのみです。
これは、正三位以上の高官が亡くなった時に国家の正史に記録される追悼文で、その人物の人柄と業績を忍んで書かれるものです。また田村麻呂の没後、嵯峨天皇の時代に書かれたという「坂上田村麻呂伝記」が「群書類従」の中に残されていて、ここには田村麻呂についてもう少し詳しい描写がされています。この伝記を紐解きつつ、田村麻呂の生きた時代をご案内しましょう。
清水寺と言えば「清水の舞台」、「音羽の滝」、「ご本尊の十一面観音像」、「子安の塔」、そして最近では寺領内にある地主神社が、「縁結びの神様」としてもてはやされるなど名所に事欠きませんが、このお寺と蝦夷征伐で有名な坂上田村麻呂が深い関係にあることは、一般にはあまり知られていないようです。この田村麻呂、一体どのような人物なのでしょうか。
坂上田村麻呂の生きた時代とは、奈良末期から平安にかけて。時の天皇である桓武帝は、大規模な国土統一と遷都を睨んだ政治を行っていました。その頃の事は「日本後期」という書物に詳しいのですが、残念なことにこの書物は散逸してしまった部分が多く、田村麻呂に関しての記述は、「薨伝」と呼ばれる追悼文が残っているのみです。
これは、正三位以上の高官が亡くなった時に国家の正史に記録される追悼文で、その人物の人柄と業績を忍んで書かれるものです。また田村麻呂の没後、嵯峨天皇の時代に書かれたという「坂上田村麻呂伝記」が「群書類従」の中に残されていて、ここには田村麻呂についてもう少し詳しい描写がされています。この伝記を紐解きつつ、田村麻呂の生きた時代をご案内しましょう。
大納言坂上大宿禰田邑麻呂者。出自前漢高祖皇帝。
廿八代至後漢光武帝。十九代孫考霊皇帝。十三代阿智王。率一縣同姓百人。十三代阿智王。率一縣同姓百人。出漢朝入本朝。応神天皇二十六年也。 有勅。給大和國檜前地居之。 一名英智王。
大納言坂上田村麻呂の出自は前漢の高祖に遡る。二十八代前は後漢の光武帝、十九代前は考霊帝。また十三代前の阿智王は、一族百人を率いて大和に渡って来た。時は応神天皇二六年の御代だった。勅命により、大和国檜前の地に居を構えることになる。一名を英知王と言った
大納言坂上田村麻呂の出自は前漢の高祖に遡る。二十八代前は後漢の光武帝、十九代前は考霊帝。また十三代前の阿智王は、一族百人を率いて大和に渡って来た。時は応神天皇二六年の御代だった。勅命により、大和国檜前の地に居を構えることになる。一名を英知王と言った
阿智王十一代孫贈大納言勲二等苅田丸の二男也。
宝亀十一年将監。
阿智王の十一代の子孫に、大納言・勳二等を贈られた刈田丸という人がいて、それが田村麻呂の父親です。刈田丸は、宝亀元年(770年)、陸奥鎮守将軍となって陸奥の多賀城に赴任しています。
恐らく田村麻呂もこれに同行したのでしょうし、それが後年の蝦夷征伐に大いに役立ったのではないでしょうか。宝亀十一年(780年)、田村麻呂は右近府の将監に任じられます。
この四年後父の刈田麻呂は死亡。遷都事業に手をつけた桓武天皇は、次は蝦夷征伐と、延暦8年(789年)奥州に大軍を送りますが、これは蝦夷の首領アテルイに大敗を喫します。
しかしこんなことで諦める桓武天皇ではありません。翌々年の延暦十年、田村麻呂を蝦夷征伐準備のため、東海道諸国に派遣します。
阿智王の十一代の子孫に、大納言・勳二等を贈られた刈田丸という人がいて、それが田村麻呂の父親です。刈田丸は、宝亀元年(770年)、陸奥鎮守将軍となって陸奥の多賀城に赴任しています。
恐らく田村麻呂もこれに同行したのでしょうし、それが後年の蝦夷征伐に大いに役立ったのではないでしょうか。宝亀十一年(780年)、田村麻呂は右近府の将監に任じられます。
この四年後父の刈田麻呂は死亡。遷都事業に手をつけた桓武天皇は、次は蝦夷征伐と、延暦8年(789年)奥州に大軍を送りますが、これは蝦夷の首領アテルイに大敗を喫します。
しかしこんなことで諦める桓武天皇ではありません。翌々年の延暦十年、田村麻呂を蝦夷征伐準備のため、東海道諸国に派遣します。
同じ年の七月、いよいよ討伐軍十万が派遣されます。この時は副使として軍に加わった田村麻呂ですが、延暦十三年、首級457個を挙げるという大勝利をおさめます。
延暦十四年征夷将軍正四位下近衛中将越後守。同年二月兼木工頭。
延暦十四年征夷将軍正四位下近衛中将越後守。同年二月兼木工頭。
十三年の功績により、田村麻呂は順調に階位を上げ、陸奥出按察使・陸奥守、そして延暦十六年にはついに征夷大将軍に任じられます。
同二十年十一月叙従三位。同二十二年二月任刑部郷。同二十三年正月補陸奥出羽按察使。同二十四年任参議。弘仁元年(大同元年?)叙正三位。任中納言。同年九月任大納言。同二年五月二十三日薨。干時年五十四。
延暦二〇年、いよいよ第三次征夷作戦が始まります。田村麻呂の戦果は目覚しく秋には従三位を授けられ、翌二一年には、長い間朝廷の征夷作戦に抵抗して来た蝦夷の首領・アテルイも投降してきました。
その後田村麻呂が征服した朝廷の勢力範囲は現在の岩手県にまで広がり、最終目標として津軽攻略までの目的ができました。弘仁元年(八一〇年)には大納言に任じられ、藤原薬子の乱では鎮圧軍の指揮も任じられました。そして弘仁二年五月二十三日、平安京郊外の粟田別業で死去しました。享年54歳でした。
その後田村麻呂が征服した朝廷の勢力範囲は現在の岩手県にまで広がり、最終目標として津軽攻略までの目的ができました。弘仁元年(八一〇年)には大納言に任じられ、藤原薬子の乱では鎮圧軍の指揮も任じられました。そして弘仁二年五月二十三日、平安京郊外の粟田別業で死去しました。享年54歳でした。
栢原天皇第八皇子葛井親王者。
大納言女従四位下春子女御之所生也。仍殊加賜之。
天皇不視事事一日。同五月二十七日大舎人頭従四位下藤原朝臣縵麻呂。治部少輔従五位下秋篠朝臣全継。就大納言第読贈従二位宣命。同二十七日葬於山城國宇治郡栗栖村。干時有勅。調一備甲冑兵仗劔鉾弓箭糒監令合葬。向城東立柩。即勅監臨行事。
田村麻呂の娘の一人は、桓武帝の后であり、葛井親王の母であるため、御賜品が加増されました。そして田村麻呂死去の訃報を聞いた天皇は、一日喪に服し、その後彼に従二位の宣命を賜り、山城国宇治郡栗栖村水陸田三町を墓地として下賜しました。
田村麻呂の墓には、武人らしく甲冑、兵仗、劒、鉾、弓矢などが合葬されたそうです。
其後若可有国家非常事。則件塚墓苑如打鼓或如雷電。
爾来蒙将軍号而向凶徒時先詣此墓。誓祈。
坂上田村麻呂の死後、国家に非常事態の起きる事がある時は、この墓はあたかも鼓を打つが如く、また雷電の如く鳴動し、危急を告げると「田村麻呂伝記」は伝えています。
また士たるもの、将軍の位階を授かって兇徒に向う時にはまずこの墓に詣で、勝利を祈願し無事の帰還を祈る慣しとなったそうです。
また士たるもの、将軍の位階を授かって兇徒に向う時にはまずこの墓に詣で、勝利を祈願し無事の帰還を祈る慣しとなったそうです。
大将軍身長五尺八寸。胸厚一尺二寸。向以視之如偃。 山科区勧修寺東栗栖野町
背以視之如俯。目写蒼鷹之眸。鬢繋黄金之楼。
重則二百一斤。軽則六十四斤。
「田村麻呂伝記」では、ここから坂上田村麻呂の生前の様子を伝えます。坂上田村麻呂は身長が五尺八寸。センチメートルに換算すると約174センチで、胸板が36センチもあったというのですから当時としては大変な大男だったでしょう。
大変堂々とした威丈夫で、その眼は白い鷹に似、鬢の毛は黄金の糸を紡いだように光っている。体重の重い時は201斤、軽い時は64斤でその軽重は思いのままであったというから、これは大変羨ましい話ではありませんか。
大変堂々とした威丈夫で、その眼は白い鷹に似、鬢の毛は黄金の糸を紡いだように光っている。体重の重い時は201斤、軽い時は64斤でその軽重は思いのままであったというから、これは大変羨ましい話ではありませんか。
動静合機。軽重任意。怒而廻眼。猛獣忽斃。咲而舒眉。 稚子早懐。丹款顕面。桃花不春而常紅。勁節持性。松色送冬而獨翠。
その行動は機に応じて機敏であり、臨機応変な頭の持ち主だったそうです。怒ると猛獣も忽ち恐れをなすほどの勇猛さでしたが、笑うと幼子もすぐに懐くほどのやさしい笑顔の持ち主でもあり、真心に溢れ、強い意思の持ち主だったと伝えられています。
運策於帷帳之中。決勝於千里之外。武芸称代。勇身踰人。辺塞閃武。
華夏学文。張将軍之武略。当案轡於前駈。簫相國之奇謀。宜執鞭於後乗。
力ばかりでなく謀にも優れ、辺境に会ってその武は花開きました。田村麻呂の智謀と武力は張良にも、簫何にも引けを取るものではないと讃美して伝記は記述を終えています。
田村麻呂は、彼が制圧した東北地方でも色々な所で奉られていて、田村麻呂が建立したと言われる寺社は福島県・宮城県・岩手県の三県で信憑性の比較的高い所で一〇六社もあり、田村麻呂が行ったはずのない山形・秋田・青森にまで広がっています。
そしてどこへ行っても征服者であるはずの田村麻呂が英雄として気高く描かれています。正史というものは、時の権力者にとって都合のよい書き方をする事がほとんどですから、これも仕方のない事かもしれませんが…。
この田村麻呂ですが彼は大変愛妻家であったようです。と言いますのも、田村麻呂が観音を信仰し、清水寺と深く関わるのも元はと言えば妻・高子の懐妊によるのだそうです。
清水寺縁起によれば、この寺の開基は宝亀九年に遡ります。奈良の子島寺に住んでいた延鎮上人が、「木津川の北流に清泉を求めて行け」との霊夢を受け、泉を探しに山に分け入ると、深山幽谷の音羽山腹の滝の辺に辿りつきます。
上人はそこで草庵を営み、永年修行中の行叡居士に出会い、一本の霊木を授かります。上人はその木で観世音菩薩のお像を彫り上げ、これを居士の旧庵にまつったのが清水寺の起りだと伝えられています。
そしてどこへ行っても征服者であるはずの田村麻呂が英雄として気高く描かれています。正史というものは、時の権力者にとって都合のよい書き方をする事がほとんどですから、これも仕方のない事かもしれませんが…。
この田村麻呂ですが彼は大変愛妻家であったようです。と言いますのも、田村麻呂が観音を信仰し、清水寺と深く関わるのも元はと言えば妻・高子の懐妊によるのだそうです。
清水寺縁起によれば、この寺の開基は宝亀九年に遡ります。奈良の子島寺に住んでいた延鎮上人が、「木津川の北流に清泉を求めて行け」との霊夢を受け、泉を探しに山に分け入ると、深山幽谷の音羽山腹の滝の辺に辿りつきます。
上人はそこで草庵を営み、永年修行中の行叡居士に出会い、一本の霊木を授かります。上人はその木で観世音菩薩のお像を彫り上げ、これを居士の旧庵にまつったのが清水寺の起りだと伝えられています。
二年の歳月が流れ、宝亀年の夏、田村麻呂が妊娠中の妻のために鹿を求めようと音羽山にやって来ます。彼もまた清水に誘われ、延鎮上人の庵を訪ねることになりました。
そして上人に、殺生をする非を諭され、殺した鹿を弔って下山し、妻に、上人に会い殺生の罪を諭され、清水と観音の霊験・功徳を説かれたことを伝え、二人揃って観世音菩薩にを信仰することになります。
そして上人に、殺生をする非を諭され、殺した鹿を弔って下山し、妻に、上人に会い殺生の罪を諭され、清水と観音の霊験・功徳を説かれたことを伝え、二人揃って観世音菩薩にを信仰することになります。
その後、延鎮上人は田村麻呂の征夷作戦の成功を祈願し、田村麻呂も観音の加護で夷敵を平らげ無事に都に帰還することが出来ました。感謝の印に、田村麻呂は本尊に詣で、さらに延鎮上人に協力して地蔵菩薩と毘沙門天を造り、ご本尊の観世音菩薩の両脇に具しました。
また延暦年、仏殿を造り替えて奉納しました。このため清水寺には今でも坂上田村麻呂夫妻を奉った、開山堂(田村堂)が残り、行叡居士・延鎮上人と共に、清水寺を見守っているそうです。
また延暦年、仏殿を造り替えて奉納しました。このため清水寺には今でも坂上田村麻呂夫妻を奉った、開山堂(田村堂)が残り、行叡居士・延鎮上人と共に、清水寺を見守っているそうです。
最後に、ご本尊の十一面四十二臂千手観音像ですが、普段はお厨子に入っていて拝見することが出来ません。ご開帳は33年ごとで、次のご開帳は二〇三三年の予定です。
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