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12/21/2010

若戸大橋と河童

1/09/2010

食い物整理

1月末に向けて、食料の整理

あるものから食っていく。

とりあえず、さぬきうどんの乾麵を食う。

冷やしうどん、ゆでたまご付き・・・




ポンポン船と言えば、洞海湾の渡し船、餓鬼のころ乗った・・・

まだ、現役らしい・・・ 若松ー戸畑

出典)

http://www.yado.co.jp/ship/17wakato/17wakato.htm



第十七わかと丸 Information

・船会社 :北九州市
・航路  :(北九州市)戸畑~若松(3分)
・問合せ先:北九州市渡船事業所…北九州市戸畑区北鳥旗町11-1
 電話  :TEL:093-861-0961


 後ろの赤い橋は若戸大橋。いまどき船賃大人100円、小人50円は良心的。へたな遊園地の乗り物 より楽しめる。・船名  :第十七わかと丸
・総トン数:43トン
・航海速力:9.26ノット
・旅客定員:170名
この航路には第十七わかと丸(43トン)、くき丸(24トン)が就航している






木曜日, 10月 22, 2009


社稷

Aoyagi YoSuKe

Salon de Prevert


【社稷】しゃしょく

①[礼記(祭儀)]昔の中国で、建国のトキ、天子・諸侯が壇を設けて祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)。

②[論語(先臣)]国家。朝廷。


安くてうまいのは、旬です。


9/08/2010

酒匂川

下北にあったぞ


酒匂川出身の若手が経営するバー




小泉チルドレン




掲げていたのは


「絆」



AO


そこに通う東大生は?


鳩山邦夫の出身地、久留米




何を隠そう、バーの名前は?


麦と兵隊


糞尿譚


かっぱ、でした - 芥川龍之介


火野は「河童」を愛した


1960年(昭和35年)1月24日、自宅の書斎で死去。享年53。最初は心臓発作と言われたが、死の直前の行動などを不審に思った友人が家を調べると、「HEALTH MEMO」というノートが発見された。そこには、「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」と書かれていたという。


僕は、ちょうど、53歳、シャングリラを見て、都立広尾病院のER室へ、笑い



7/21/2010

ERの謎が解けた・・・




हूं(huuM)フーンウーン阿閦如来 金剛薩埵(胎蔵界) 降三世明王 金剛夜叉明王 愛染明王



時輪タントラではシャンバラは阿閦如来を本地とする憤怒尊を本尊とするカーラ・チャクラで満ちているとされ、無上不動の信仰・知恵を得ることが説かれる。


三昧耶形は五鈷金剛杵種子(種字)は憤怒の叫びを表すウーン(huuM)

ブラフマン 梵天


ब्र(bra)ブラボラ梵天

3/26/2010

ERの怪

都立広尾病院のERへと、救急車で運ばれた。


医師が状況を把握するために、いくつかの質問をして、その後、点滴を受けた。

僕はのどが乾いて仕方ないので、水を要求した。


看護師は、点滴には水分も含まれているので、我慢してください・・・


そのうちに、仕切りのカーテンの右側から、男の叫び声が、「いてえ~~~」

刃傷沙汰で血まみれになってERに運ばれた男だったようだ・・・


仕切りの左側からは、う~~~ん、と力む女性の声が・・・ 看護師の声も・・・


おそらく、出産だ・・・


僕はその間に挟まれて、ベッドの上で、胡坐をかいて、右手を挙げていた。薬剤の投与である。


看護師さんが横になったらどうですか?

僕は胡坐の方が楽だと言った。


CTを撮られて、点滴と薬剤投与・・・ CTは異常なし・・・


胡坐を組んで、薬剤投与中に、女の看護師たちが笑い始めた・・・


可哀そうに・・・

ERって、変なところ、本当に命が危険な人たちを処置するシステムなのだろうか?


看護師の和やかな笑い声を聞いていると、変な気がした。


たしかに、右も、左も、大出血・・・


医師との最後の問診が終わって、部屋を出ると、渋谷署のおまわりがふたり座っていた・・・


たしかに、事件である、笑い


支払いは、13700円、ちょうど、15000円が財布に入っていた。

病院代とタクシー代を入れて、きれいさっぱりとカネがなくなった・・・


摩訶不思議~~~


倒れた飲み屋で、飲み代を支払いうために、ファミリーマートで初めてカネを引き出した。

5000円なり・・・

1000円札1枚と、2000円札2枚


飲み屋の支払いがちょうど2000円、世話を焼いてくれたママさんに、お礼の2000円を渡した。


源氏物語絵巻が2枚、ママさんに手渡った・・・






---Wiki

火野 葦平(ひの あしへい、1907年明治40年)1月25日 - 1960年昭和35年)1月24日)は、昭和期の小説家。本名玉井勝則



福岡県遠賀郡若松町(現北九州市若松区)で沖仲仕「玉井組」を営んだ玉井金五郎の三男二女の長男として生まれる。自伝的作品『花と竜』等に書かれているように父・金五郎は現在の愛媛県松山市の出身、母・マンは現在の広島県庄原市の出身。
旧制小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)卒業、早稲田大学英文科中退。『糞尿譚』で芥川賞を受賞、その後の『麦と兵隊』は大きな評判をよび、『土と兵隊』、『花と兵隊』とあわせた「兵隊3部作」は300万部を超えるベストセラーとなった。著述業と共に「玉井組」二代目も務める。
なお、妹の息子(火野の甥にあたる)が、ペシャワール会の医師中村哲である。
三男・史太郎は、旧宅を利用した記念館「河伯洞」の館長。

経歴 [編集]

小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)時代から文学に関心をよせ活発に活動。第一高等学院入学後、童話集を自費出版する。1926年大正15年)、早稲田大学英文科に入学し、寺崎浩や田畑修一郎らと同人誌「街」を創刊、小説や詩を発表していたが、1928年(昭和3年)、兵役で福岡第24連隊に入営。除隊後は大学に戻らず、家業の沖仲士の組頭「玉井組」を継いで、若松港湾労働者の労働組合を結成するなど労働運動にも取り組むが、検挙されて転向し、地元の同人詩誌「とらんしつと」に参加して再び文学活動を開始する。1930年(昭和5年)8月に日野徳七の養女で芸者の徳弥こと日野ヨシノ(良子)と結婚、9月には長男闘志が生まれる。1934年(昭和9年)筆名を火野葦助から火野葦平にあらためる。
1937年(昭和12年)、日中戦争に応召し、出征前に書いた『糞尿譚』の第6回芥川賞受賞を陣中で知る。戦地で行なわれた授賞式には日本から小林秀雄がおもむいた。その後報道部へ転属となり、軍部との連携を深めた。戦闘渦中の兵隊の生々しい人間性を描き、戦地から送った従軍記『麦と兵隊』が評判を得て人気作家となり、帰還後も「兵隊作家」ともてはやされた。太平洋戦争中も各戦線におもむき、従軍作家として活躍した。攻略直後の南京に入り、それに至る進撃路において捕虜が全員殺害される様子を手紙に書いている。
戦後は、「戦犯作家」として戦争責任を厳しく追及され、1948年(昭和23年)から1950年(昭和25年)まで公職追放を受けるが、追放解除後も、若松の「河伯洞」と東京の「鈍魚庵」を飛行機で往復するなど活動し、九州男児の苛烈な生き方を描いた自伝的長編『花と竜』や自らの戦争責任に言及した『革命前後』など数多くの作品によって文学的力量を発揮し、再び流行作家となった。
1960年(昭和35年)1月24日、自宅の書斎で死去。享年53。最初は心臓発作と言われたが、死の直前の行動などを不審に思った友人が家を調べると、「HEALTH MEMO」というノートが発見された。そこには、「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」と書かれていたという。その結果、睡眠薬自殺と判明した。このことは13回忌の際に遺族によりマスコミを通じて公表され、社会に衝撃を与えた。その時、ニュースで報じた告別式の映像がKBCの映像資料[1]として現在も保管されている。この自殺は、60年安保に向けて騒然としていた世情と関係があるともいわれている。
同年5月、『革命前後』および生前の業績により日本芸術院賞を受賞。

主な作品 [編集]

  • 『糞尿譚』
  • 麦と兵隊
  • 『花と兵隊』
  • 『土と兵隊』
  • 『兵隊の地図』
  • 『青春と泥濘』
  • 『山上軍艦』
  • 『帝釈峡記』
  • 『修験道』
  • 『海と兵隊』
  • 『山芋日記』
  • 『雨後』
  • 『兵隊について』
  • 『幻燈部屋』
    • 『神話』(第二部)
    • 『新市街』(第三部)
    • 『花扇』(第四部)
    • 『水祭』(第五部)
    • 『夜鏡』(第六部・完)
  • 『春日』
  • 『百日紅』
  • 『オロンガポの一日』
  • 『敵将軍』
  • 『陸軍』
  • 『中津隊』
  • 『南方要塞』
  • 『悲しき兵隊』
  • 『夜景』
  • 『怒濤』
  • 『歌姫』
  • 『ちぎられた縄』
  • 『夜汽車』
  • 『青春発掘』
  • 『花の下の井戸』
  • 『沈まぬ太陽』
  • 『氷と霧』
  • 『馬と人参』
  • 『青春の岐路』
  • 『象と兵隊』
  • 『恋愛家族』
  • 『花の座』
  • 戯曲『陽気な地獄』
  • 詩集『青狐』

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