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12/20/2010

朝鮮半島情勢

金さんと、李さんのメンツをかけた戦い?


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李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年から1910年まで続いた朝鮮半島の最後の王朝李朝(りちょう)ともいう(李王朝の意)。高麗の次の王朝。
1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる[1])が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年中国から権知朝鮮国事朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられ、国号大朝鮮国[要出典](ちょうせんこく)と改める。明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。
日清戦争日本が勝利したことにより、日本と国との間で結ばれた下関条約は朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と独立をもたらした。これにより朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改めたが、これ以後日本の強い影響下に置かれることとなり、韓国の主権は次第に日本に移されてゆく。1910年8月の韓国併合ニ関スル条約調印によって日本に併合され(韓国併合)、李氏朝鮮は消滅した。

国名 [編集]

朝鮮歷史
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新羅
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正式の国号は大朝鮮国[要出典](ちょうせんこく)。
高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は、即位するとすぐに権知高麗国事と称してに使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められた。
明より王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、新王朝の国名に「朝鮮」と「和寧」の2案を挙げ、明がこれに応えて李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより朝鮮を国号とした。和寧と言うのは李成桂の出身地の名であり、現在では国号の本命ではなかったとの意見が多い。
朝鮮半島には衛氏朝鮮などの朝鮮を国号に持つ王朝がかつて存在したため、日本ではそれらと区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつある[2]
韓国では、「李氏朝鮮」「李朝」と言う名称は植民地史観に基づくものとされるため、国内では一般的に使用されていない。通常、李氏朝鮮が統治していた国は「朝鮮」、李氏朝鮮の王室は「朝鮮王朝」と呼ぶ。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は古朝鮮と呼び区別している。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。北朝鮮では歴史教育の場で封建統治者を批判する時に限ってのみ「李氏朝鮮封建統治輩」「李朝封建国家」という言葉を使用している。
1897年、清の冊封体制からの離脱・独立の後に国号を大韓帝国(だいかんていこく)と改称した。

歴史 [編集]

李氏朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から端宗までの王道政治の時代(1393年 - 1455年)、世祖の王権簒奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1455年 - 1567年)、士林派による朋党政治(1567年 - 1804年)、安東金氏・閔氏などの外戚による勢道政治(1804年 - 1910年)の区分に分けられる。
一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶが朝貢国であった時代(1393年 - 1637年)と、の朝貢国であった時代(1637年 - 1894年)、清と欧米の列強および日本が朝鮮に対する影響力をめぐって対立した末期(19世紀後半 - 1910年)という3つの時代区分に大きく分けられる。
第1の区分の末期には、文禄・慶長の役(韓国名倭乱)と胡乱(後金(のちの清)による侵攻)と言う大きな戦争が朝鮮半島内で発生しており、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代には、清の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え(小中華思想)や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想(事大主義)や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する中華思想などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮朱子学の発達が進んだ。その後は儒教内部で改革的な実学思想が生じ、又洋学などが発生した。これらは支配層からたびたび強い攻撃を受けたが、開港後の改革運動の母体ともなった。
ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)
日本、中国、ロシアが互いに釣って捕らえようとしている魚が朝鮮を示している
19世紀末期になると、欧米列強日本大日本帝国)、清などの介入が起こる。結局1894年の日清戦争で日本と清が戦って日本が勝ち、清との冊封関係も消滅したことで日本の強い影響下に置かれ、朝鮮は第3の区分に入った。
しかしこの時代は、国内的にはロシアと日本の対立に巻き込まれ、それに派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥っていった。親日路線をとる派は、親ロシア派や攘夷派などの妨害を受けた。近代化論者の中にも親日派や親露派、攘夷派が混在しており、それが混乱に拍車をかけた。日露戦争で日本勝利後は日本の影響力の向上に伴い宮廷内では親日派の力が大きく伸張した。日本と韓国内部の李完用などは日本が韓国を保護国化・併合する方針を採り、一進会は「韓日合邦」を主張した。日露戦争後の第二次日韓協約で日本は韓国を保護国化し、実質的な支配権を確立した。1910年に日本と韓国は韓国併合ニ関スル条約を結び、韓国は消滅した。
李氏朝鮮時代の特徴は500年の長きにわたって続いた儒教道徳に基づく統治である。これは一面では身分制度を強固なものとし、差別意識を助長したり、現実に沿わない外交、内政を支配者に行わせる原因となった。その一方で儒教は高麗末期の腐敗仏教を打破し、また王朝後期には革新思想が生まれてきたように知識人が政治や社会の変革を考える要因ともなった。儒教の影響力がかなりの程度減じた現在の韓国、北朝鮮でも、このような儒教の二面性は形を変えつつ存続しているとされている。文化的には高麗青磁を受け継いだ李朝白磁があり、前代の華麗さに対して優美さを基調としたものと評価されている。儒教道徳を曲解した支配者からの差別も非常に根強かったが、白磁は李朝を通じて優れた職人達の手を通じ堅実な発展をみせ、日本の陶磁器にも大きな影響を与えた。
韓国の朴正煕大統領は自著『国家、民族、私』で、李氏朝鮮について次の言葉を遺している。
  • 「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」
  • 「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」
  • 「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」

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